明宗は、在位わずか7年で病死する(933年)。三男の李従厚がその後を継ぐが、すぐに義子(養子)の李従珂によって簒奪された。更に李従珂は権力の安定を狙って明宗の女婿であり、実力者である石敬瑭を排除しようとする。石敬瑭はこれに対抗しようとするが、独力では対抗し得ないと見切った石敬瑭は北の契丹に対して援助を求め、その見返りとして燕雲十六州の割譲を約束した。これに応えて契丹の太宗・耶律徳光は大軍を南下させて後唐を攻め、これを滅亡させた。
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936年、皇帝に即位して後晋を建てた石敬瑭(高祖)は契丹に対して臣従し、後晋はほとんど契丹の衛星国家となった。中央の状況を見た地方勢力は離反して南の呉に寝返ったり、反乱を起こす者が続出した。
その鎮圧に追われて高祖は942年に病死する。後を甥の石重貴が継いだが、彼の即位は契丹に対する強硬派によって行われたものであり、強硬外交により契丹の怒りを買った。946年、契丹(翌年に国号を遼とした)の太宗は再び親征の大軍を南下させ、後晋の首都・開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。
遼はそのまま中国を支配下としようとしたが、蛮族と見下していた契丹族に支配されることを嫌った開封の住民は抵抗した。また遼の本土では中国支配に対する反対意見が強く、困難を悟った太宗は北へ引き返し、途上で病死した。
それを傍観していた石敬瑭の元側近の劉知遠は、自らの任地である晋陽で947年に皇帝に即位して後漢を建て、軍を南下させて同年に開封を占領した。
しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐がその後を継ぐ。幼帝を担いだ側近たちは有力者の排除を図り、次々と軍人たちを誅殺していった。反乱の鎮圧に出ていてこれを免れた枢密使の郭威は自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ、開封を攻め落とし、自らの誅殺を企んだ側近たちを一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこに当たる劉贇(りゅうひん、贇は文武の下に貝)を擁立しようとしたが、考えを改めて劉贇を殺し、951年に自ら即位。後周を建てた(太祖)。それから間もなく、劉贇の父・劉崇は晋陽の地で自立し、北漢を建国した。